本丸より (17)

◆blue in blue◆

ブルー

“ナイーブ”と聞くと、英語を解さない人達にとっては、「繊細」で「感じやすく」なにかといい感じの意味として受け取り、使っていることが多いように思われる。

英語でいうナイーブは「世の中を知らない」、つまり早い話が、世間知らずのバカモノ、という意味があって、ほとんどの場合、余りいい意味として使われない。

だから、時々、とうに成人を過ぎたいい女が、自らを「私みたいなぁ、女の子はぁ、ナイーブだからぁ~」と言っているのを耳にすると、ああ、ある意味、自覚があるというか、自ら「私はバカです」と言っている...と聞いていて呆れながら感心する。もちろん、この場合の感心は、かなりの皮肉を込めた感心であって、感服しているわけではない。

私が日本のテレビ番組を見ていて、この“ナイーブ”という単語を正しい意味として使っている人を見たのはデヴィ夫人が最初だった。
今のような娯楽番組に出演するようになるずっと以前、ゲストとして日本の若い女性について語っていた時、『吹けば飛んじゃうようなちーさなダイヤのネックレス、プチダイヤって言うんですかしらね? あんなのダイヤのうちに入らないんですのよ。そんなのに対して、やれカラーがどうの、クオリティーがどうのって気にするなんて、日本の女性は余りにもナイーブすぎると思うんですのよ、オーッホッホッホ』というような話しだった。

吹けば飛ぶようなダイヤがダイヤの数にはいるかどうかはさておき、この場合のナイーブは的を射た表現だと思った。

日本は古来から、言葉遊びを文化の一つとして来た。
また、長い鎖国時代の影響もあったかもしれない。
日本語ほど、短期間に形を変える言語は珍しいということも聞いたことがある。変化するのは何も日本語だけというわけでなく、多くの国の言葉が時代と共に変化しているのは自然の法則とも言える。
未だにシェークスピアのような英語で恋文を受け取ったら、私はそれが喧嘩を売ってきてるのか恋を語っているのか理解できなかったかもしれない。極端な例えではあるけれど。
そう言えば、ラブレターという言葉を作ったのは、このイギリスの文豪、ウィリアム・シェークスピアだった。

言葉の変化はともかくとしても、本来の言葉そのものは残っているべきものだと思う。
久しぶりに帰国するたびに、私の生まれたこの国の言葉は、どうなってしまったのだろうと悲哀に満ちてくる。

物事を知らないこと、正しい言葉を使えないこと、敬語や尊敬語、丁寧語をTPOによって使い分けられないことがもし、ただ“カッコイイ~~~じゃーん”という価値観として定着しているとしたら、それは余りもナイーブすぎる。

日本語は美しい。

そのことばひとつひとつの響きも、流れも、意味も、美しいものなのだ。

 

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